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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」)-2026-09-13-台湾流行歌の「禁歌」史――時代に禁じられ、それでも歌い継がれた歌たち

台湾の「禁歌」の系譜(国立台湾博物館「台湾音声100年」画像を筆者コラージュ)
台湾の「禁歌」の系譜(国立台湾博物館「台湾音声100年」画像を筆者コラージュ)

<オープニング:「禁歌」ーー時代に禁じられた歌の系譜>

  • 表現の自由が保証されている現在の台湾では、極めて当たり前のことだが、歌は自由に作られ、歌われ、聴かれている。しかし、かつての台湾では、一曲の歌が「思想的に危険」「風俗を乱す」「日本文化の影響が強い」「悲観的で民心を喪失させる」などの理由で、放送、販売、演奏を禁止されることがあった。

  • とりわけ1949年から1987年までの戒厳令時代には、歌そのものが国家による思想統制の対象となった。国防部などが「查禁歌曲(禁止歌曲)」のリストを作成し、ラジオ局、レコード会社、レコード店、学校、行政機関などを通じて、歌の流通と歌唱を監視したのである。

  • 国史館・国家発展委員会档案管理局などの資料によれば、戒厳時代に「查禁」された歌曲は898曲に及ぶとされる。あまりに悲しい歌も、逆にあまりに陽気な歌も、男女の恋愛を描いた歌も、日本語や日本の旋律を使った歌も、さらにはタイトルに含まれる一文字のために禁止された歌まで存在した。

  • しかし、台湾の「禁歌」の歴史は、1949年に突然始まったわけではない。日本統治時代にも、社会の暗部を歌った作品が当局によって問題視されていた。そこから戦後の「去日本化(日本の影響を排除)」、「國語政策(中国語推進政策)」、「反共政策」、そして「戒厳体制」へと、時代ごとに禁止の理由を変えながら、台湾の歌は国家権力と対峙することになる。

  • 本日は、その歴史を象徴する4曲を取り上げつつ、時代に禁じられた歌たちとそれでも歌い継がれた理由についてご紹介していきたい。

<第1セクション:日本統治時代の「街頭的流浪」と「雨夜花」>

  • 台湾で現在確認されている最も早い「禁歌」の一つが、1934年に発表された台湾語歌曲「街頭的流浪(街角をさすらう)」である。作詞は守真、作曲は周玉當、歌唱は青春美。台湾の泰平唱片から発売された。この歌は、世界恐慌の影響などによって失業者が増えていた当時の台湾社会を背景に、「景気は日に日に悪くなり、商売も日に日に苦しくなる」「仕事にあぶれた兄弟たち」といった内容で、庶民の失業と貧困を率直に描いた作品だ。私もオリジナルの音源を聴いたが、明るいメロディーに乗せて青春美さんが軽快に歌うと、確かに世情を皮肉っているように聞こえる。

  • この歌が問題視されたのは、日本統治地社会の厳しい現実を、多くの人々に伝わる「歌」で表現したことだった。当時、日本統治下の台湾総督府にとって、失業者や生活苦が広がる社会の姿は、日本統治の負の側面を示すものでもあった。このため、「街頭的流浪」は発売後まもなく流通が制限されました。

  • ただ、この頃は、後の戒厳時代のような歌曲専門の体系的な「查禁制度(発禁制度)」がまだ確立されていなかったため、当局は歌詞集や解説書などの出版物を発禁にする形から統制を進めた。その後、歌曲そのものに対する審査・取締りが次第に制度化されていく。

  • 一方、この歌は発売後の短期間で約1万枚を売り上げたとも伝えられている。ここには、後の台湾の「禁歌」にも共通する特徴がある。国家が問題視した歌は、むしろ人々の共感を集めることが多かったという点である。新聞や書物と違い、歌は文字を読めない人にも届く。誰かが歌えば覚えることができ、街角や家庭で繰り返し広まっていく。その強い伝播力こそが、権力が流行歌を警戒する理由の一つでもあった。

  • 台湾歌謡を代表する「雨夜花」も、「禁歌史」を考えるうえで重要な作品である。周添旺作詞、鄧雨賢作曲、純純の歌唱によって1930年代に大ヒットしたこの曲は、夜の雨に打たれて散る花に、社会の片隅で生きる女性の悲哀を重ねた歌だった。

  • ところが1937年の日中戦争勃発後、台湾は戦時体制に組み込まれ、皇民化政策が強化されていく。その過程で台湾語による流行歌は圧迫され、「雨夜花」は日本語の歌詞を付けられ、「誉れの軍夫」という軍歌へ改作された。同じく鄧雨賢の代表作である「月夜愁」は「軍夫の妻」、「望春風」は「大地は招く」へと改作された。もともと恋愛や人生の哀感を歌っていた旋律が、戦争への協力や軍人・軍属を称える歌へと転換されたのである。

  • この事例は、「禁歌」を単純に「歌唱禁止」と考えるだけでは不十分であることを示している。国家権力がやったことは、不都合な歌を消し去るだけではない。人々に親しまれていた旋律を利用し、歌詞を書き換えることで、その歌に込められた趣旨を変えることもためらわなかった。人々の記憶に深く定着しているメロディーだからこそ、戦争宣伝にも利用価値があったのである。このように、国家権力が原曲の歌詞を封印して別の内容に書き換えることも、私は広い意味での「禁歌」と捉えている。

  • それではここで、一曲お聴きいただこう。周添旺作詞、鄧雨賢作曲の「雨夜花」。本日は数年前に大ヒットしたネットドラマ『華燈初上(邦題:華燈初上 -夜を生きる女たち-)』の挿入歌として家家さんが歌ったバージョンでお届けする。

<第2セクション:戒厳時代の「四季紅」「媽媽請妳也保重」>

  • 戦後の台湾で、戒厳体制下の歌曲統制を象徴する例の一つが「四季紅」である。李臨秋作詞、鄧雨賢作曲のこの歌は、「雨夜花」「望春風」と同様に日本統治時代の作品だが、戦後も多くの台湾の歌手や市民に歌い継がれた楽曲の一つだ。春夏秋冬の台湾の風景と恋心を重ねながら描いた作品で、政治的な内容とはほとんど無縁だった。ところが、国民党政権が台湾を統治し始め、「反共抗俄(反中共反ソ連)」を国家政策として強く打ち出すようになると、事情が変わる。

  • 曲名に「紅」という文字がある。さらに歌詞にも「朱朱紅(燃えるような赤)」というフレーズが登場する。これが共産主義を象徴する「紅」を連想させるとして、「為匪宣傳」、すなわち「共産党の宣伝につながる」と判断され、「查禁(発禁)」の対象となった。このため、この楽曲を歌う際には「四季謠」とタイトルを変更する必要があった。

  • 現在の台湾から見ると、恋歌の「紅」という一文字から共産党の宣伝と連想するのは、あまりにも過剰な反応に思える。しかし、これは当時の歌曲の検閲が、歌全体の意味だけでなく、タイトルや特定の単語まで政治的な記号として読み取っていたことを示している。「赤」や「紅」という言葉そのものが、「反共体制」の時代状況の中で政治化されていたのである。

  • このような検閲は、歌手や作詞家にとっても大きな影響を及ぼした。何が問題になるのか曖昧な状況では、制作段階から「この言葉は危険ではないか」と考えざるを得ない。国家による禁止だけでなく、創作者自身による自己検閲の風潮を生み出すことにもつながった。

  • 1959年、台湾語歌手・文夏さんが作詞・歌唱で発表した「媽媽請你也保重(お袋さんお達者で)」は、藤島桓夫が日本語で歌った「俺らは東京へ来たけれど」台湾語のカバー曲である。故郷を離れて働く青年が、遠く離れた母親の健康を気遣い、母を思う気持ちを歌ったもので、政治的な主張を含む歌ではない。それでも戒厳時代、この曲は「懷憂喪志」、つまり「憂いを抱かせ、志を失わせる」という理由で「查禁」された。なぜ、母親を思う歌が危険なのか。

  • 当時の国民党政権は「反攻大陸」を国家目標として掲げ、国民、特に軍人には強い精神力と戦意が求められていた。そのような時代に、故郷や母親を思って涙する歌を聴けば、兵士がホームシックになり、士気を失うのではないか。そうした論理のもとで、個人の素朴な感情までが統制の対象となったのである。

  • 文夏さんは戒厳時代に、実に99曲もの歌曲を「查禁」処分された歌手である。「媽媽請你也保重」もその一つである。ここに、戒厳時代の「禁歌」政策の特徴がよく表れている。危険視されたのは、反政府的な歌や共産主義を宣伝する歌だけではなかった。国家が求める「健全で前向きな国民像」や「戦う国民」のイメージに合わない感情も、統制の対象になり得たのである。

  • 悲しい歌だから「民心を弱める」。故郷を思う歌だから「士気を低下させる」。こうして、恋愛や家族、郷愁といった本来は個人的な感情まで、国家の政治的な視点から監視を受けることになった。

  • ではここで、もう1曲お聴きいただこう。話題に上った「媽媽請妳也保重(お袋さんお達者で)」。この歌も文夏さんが台湾語でカバーしてから実に多くの歌手によって、再カバーされ、台湾では広く長く歌い継がれている懐メロだ。そして、この曲は母の日を祝う定番ソングともなっている。本日は台湾語ロックの大御所・伍佰 & China Blueさんのライブバージョンでお届けしたい。

<第3セクション:それでも歌は歌い継がれていく>

  • 1949年の戒厳令施行以後、台湾では新聞、出版物、放送などに対する包括的な統制が進められた。歌曲についても、レコード会社による制作・発売から、レコード店での販売、ラジオやテレビでの放送まで、さまざまな段階で統制が行われた。1971年からは「查禁歌曲手冊(発禁楽曲マニュアル)」が編纂され、1973年の出版法改正では、歌曲を禁止する理由が整理された。さらに1976年の「廣播電視法(ラジオ・テレビ法)」によって放送内容への管理も強化されていく。

  • 「查禁」理由には、「詞句頹喪、影響民心士氣(歌詞が悲観的で、民心や士気に悪影響を与える)」「意境誨淫、妨害善良風俗(内容が淫らで、公共良俗を害する)」「為匪宣傳(共産党を宣伝する)」といったものがあった。そこには、反共産主義だけでなく、風俗統制、社会教育、軍事的士気の維持といった目的が混在していた。

  • また、戦後の台湾では「國語政策(中国語推進政策)」と「去日本化(日本の影響の排除)」も重要な背景となった。日本統治時代に発展した台湾語流行歌は、日本文化の影響を受けたものとして警戒される一方、中国語を推進する政策の下、台湾語そのものも教育や放送等の公的な空間から排除されていった。

  • すなわち、台湾の「禁歌史」は、単純に「政治的検閲」の歴史と捉えるだけでは不十分である。そこには、日本統治への批判の抑制、戦時期の動員、国民党政権下での日本の影響の排除、國語政策(中国語推進政策)、反共政策、風俗統制、軍事的な士気の維持といった、時代ごとの異なる国家政策が重なっていた。

  • しかし、「禁歌」の歴史には極めて大きな逆説がある。禁止された歌が、必ずしも人々の記憶から消されたわけではない。禁止されたことで「本当は歌ってはいけない歌」として、むしろ人々に強烈に記憶され、歌い継がれた曲も少なくなかった。

  • また、創作者やレコード会社も、必ずしも「査禁」に素直に従っていただけではない。「四季紅」を「四季謠」となったように、タイトルを変えたり、歌詞を事前に修正したりして、検閲を潜り抜けて歌い続けられた例もある。変える、隠す、読み替える。このように、「上に政策があれば下に対策あり」の精神を駆使して、レコード会社も何とか歌を生き残らせようとしたのである。

  • 今回取り上げた4曲だけでも、台湾社会の大きな変化が見えてくるだろう。日本統治下で台湾語歌謡黎明期の「街頭的流浪」は、貧困や不景気など社会の矛盾を歌うことが問題視された。皇民化政策が進められる中、「雨夜花」は、台湾人に親しまれたメロディーを残したまま、歌詞を書き換えられ、国家の戦時動員に利用された。戦後の国民党政権の戒厳令下では、「四季紅」の「紅」という一文字が「反共体制」とともに政治化された。また「媽媽請你也保重」では、母を思うという個人的な感情さえ、国家の物差しによって管理された。

  • しかしその一方で、人々は歌を忘れなかった。1987年7月15日、38年余り続いた戒厳令が解除されると、それまで統制されてきた多くの歌も再び自由に歌われるようになった。そして、かつて禁じられた歌は「危険な歌」ではなく、台湾の歴史や人々の記憶を伝える歌として再評価されていくようになる。

  • 今日まで歌い継がれている「雨夜花」、「望春風」、「四季紅」、「媽媽請妳也保重」などの楽曲は、台湾では単に懐メロとして語るのは不十分である。そこには、日本統治、戦時体制、戦後の国民党一党支配の政治体制、戒厳令、そして民主化、政治体制の多様化という台湾社会の歩みが刻まれているからである。

  • かつて、国家は歌を管理しようとした。歌詞を変え、言葉を禁じ、放送を止め、レコードを市場から消そうとした。しかし、人々の記憶の中まで完全に統制することはできなかった。「禁歌」の歴史とは、国家が歌を禁じようとした歴史であるのと同時に、人々が歌を自分たちのものとして守り、継承した歴史でもある。そして台湾の近現代史を振り返る時、そこには常に、その時代の空気を吸いながら生まれ、時代に禁じられ、それでも生き残ってきた歌が数多く存在していることに気づくだろう。

  • 最後にもう1曲お届けしたい。「紅」の一字から「禁歌」となり、一時期は「四季謡」とタイトルまで変えられた歴史を持つ「四季紅」。本日は台湾演歌の旗手のお二人、洪榮宏さんと蔡幸娟さんのデュエットバージョンでお聴きいただきながらお別れしたい。

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