<オープニング:シベリアに抑留された「台湾籍日本兵」>
第二次世界大戦が終わって、今年で81年になる。戦争を直接知る世代が少なくなる中で、いま改めて、あの戦争をどのように記憶するのかが問われている。そんな中、台湾で制作された一本のドキュメンタリー映画が、日本でも公開された。タイトルは、『零下五十度の抑留者』。台湾での原題は『冰封的記憶(凍りついた記憶)』、英語では「Memories Frozen in Time」である。
作品が追いかけるのは、第二次世界大戦が終わったあと、ソ連によってシベリアへ送られた、台湾出身の元日本兵たちの足跡である。日本では「シベリア抑留」として知られる史実だが、その中に台湾人がいたことはあまり知られていない。
1945年8月、日本の敗戦を受け、満洲や朝鮮半島などにいたおよそ60万人の日本軍兵士らがソ連軍によって武装解除され、その後、ソ連各地の収容所へ移送された。極寒の環境の中で、鉄道建設や伐採、鉱山開発などの強制労働に従事させられ、およそ6万人もの人が命を落とした。
そして、その中には、当時日本の統治下にあった台湾から日本軍に入った兵士も含まれていた。現在確認されているだけで、台湾出身のシベリア抑留者は少なくとも19人。ところが、その存在は長い間、ほとんど知られてこなかった。本日はドキュメンタリー映画『零下五十度の抑留者』を通して、シベリアに抑留された台湾籍日本兵の知られざる物語について、考えていく回としたい。
<第1セクション:三人の主人公ーー呉正男さん、許敏信さん、陳以文さん>
なぜ台湾人が「日本兵」としてシベリアに送られることになったのか。当時の台湾は、日本の統治下にあった。台湾で生まれた人々は、日本の教育を受け、日本の臣民として生きることを求められていた。戦争が激しくなると、台湾人も日本軍の軍人や軍属として戦地に動員されることとなった。その数は、およそ20万人に上るとされている。
ドキュメンタリー映画『零下五十度の抑留者』でフォーカスされているのは、その20万人の中のうち、わずか3名の人生である。しかし、その一人ひとりをたどっていくと、台湾、日本、そして戦後の東アジアの歴史が複雑に絡み合っていることが見えてくる。
映画の中心となる一人目の人物が、日本在住の呉正男(ご・まさお)さんである。呉さんは、1927年、現在の雲林県斗六に生まれた。日本統治時代の台湾で育った呉さんは、少年時代から戦争を身近に感じていた。戦況が進むにつれ、学校で勉強するよりも、軍需工場や道路工事など、戦争を支える活動に駆り出される時間が増えていったという。
そして、16歳のときに自ら陸軍特別幹部候補生に志願して日本軍の兵士となり、終戦を迎えた時には北朝鮮にいた。日本が降伏すると、呉さんはソ連軍の捕虜となり、旧ソ連、現在のカザフスタンへと送られる。当時はカザフスタン中北部の丘陵地帯までがシベリアの南限とされていた。そこで待っていたのは、極端な寒さと過酷な労働だった。それでも極北に比べると、カザフスタンは真冬でもマイナス25度程度だったのが幸いしたと呉さんは語っている。
現在、確認されている台湾人シベリア抑留者の中で、呉さんは唯一の存命者である。2026年現在、99歳。映画では、呉さんご本人が、80年以上前の記憶を語っている。呉さんは「戦場から生きて帰ることができたことが自分にとって最大の幸福だった」と話しています。そして、呉さんは、自分自身の生還と同時に、戦争で亡くなり、何も語ることができなかった人たちのことを忘れないでほしいと、映画の中で繰り返し語っている。
二人目は、許敏信(シュー・ミンシン)さん。許敏信さんは、台湾の名門・許家の出身だった。父親の許丙さんは、台湾の著名な政治家・実業家で、日本統治時代に貴族院議員に勅選(天皇の勅命によって選出)された人物だった。このため、彼が日本軍に入ったことは、当時の新聞でも大きく取り上げられた。総督府にとっても、台湾人が「自発的に日本軍へ志願する」ことを宣伝する格好の材料だったのである。
しかし、戦争が終わると、彼もまたソ連軍の捕虜となり、シベリアへ送られる。ご本人は2000年にすでに亡くなっていたため、映画の中では、娘の許瑋子さんが、父親が残した日記や写真などをたどりながら、自分の知らなかった父親の過去を探っていくことになる。
そして三人目が、陳以文(チェン・イーウェン)さん。陳さんは宜蘭の医師一家に生まれた。父親は医学の道を歩ませようとしたが、周囲の同級生たちが次々と召集される状況を目にし、陳以文さんは自ら軍人になる道を選んだ。日本の本土を経て満洲に渡った。終戦時には満洲にいたため、ソ連軍の侵攻によって捕虜となり、シベリアへ送られた。
この陳以文さんの孫が、歴史研究者の陳力航さんである。陳力航さんは、祖父の人生を調べ上げ、台湾人のシベリア抑留について一冊の本を書いた。タイトルは、『零下六十八度――二戰後臺灣人的西伯利亞戰俘經驗』。2021年に台湾で出版されたこの本によって、台湾人シベリア抑留者という、ほとんど知られていなかった歴史が掘り起こされ、今回の映画『零下五十度の抑留者』の誕生に繋がっていく。
ちなみに、この本は、今年7月に『零下六十八度:シベリアに抑留された台湾人』のタイトルで日本語版も出版されていて、私も陳力航さんご本人から本書をご恵贈いただいた。なお、陳力航さんは私の曽祖父で台湾総督府の文官だった梛野尚猪(なぎのなおい)の台湾での足跡を調査してくださった恩人であり、私とも親交がある方だ。
また、陳力航さんの本のタイトルは『零下六十八度』だが、映画のタイトルは『零下五十度の抑留者』となっている。これは、「零下六十八度」は陳さんの祖父の記憶から生まれた本のタイトル。そして「零下五十度」は、その凍りついた記憶を象徴的に日本の観客に届けるためにつけられた映画のタイトルという点も補足しておこう。
さて、ではなぜ台湾人のシベリア抑留というこの歴史は、80年もの間、表に出てこなかったのか。その理由の一つは、戦後の台湾人シベリア抑留者が置かれた複雑な立場にある。戦争中、彼らは「日本人」として日本軍に入隊した。ところが1945年、日本の敗戦により、台湾は日本から中華民国の統治下に入った。
したがって、シベリアから帰ってきた時には、彼らはもう日本人ではなかった。一方、台湾に戻ると、今度は「元日本軍人」として異端視されることになった。さらに、ソ連の捕虜収容所で共産主義に触れたことを理由に、戦後の台湾社会では「共産主義者ではないか」「潜在的な共産党のスパイではないか」と警戒されることさえあった。
このため、ご本人たちは自分の過去について、家族にも詳しくは話さなくなってしまった。そして彼らの子どもや孫たちは、自分の父親や祖父が戦争中に何をしていたのか、十分に知らないまま成長することとなった。台湾の公共テレビの説明資料でも、政治とアイデンティティの問題から、彼らの歩んだ歴史には長らく蓋をされ続けてきたとされている。それでも、陳以文さんのお孫さんの陳力航さんが歴史研究者だったことから、陳以文さんの事例を通して、台湾人のシベリア抑留の事実が炙り出されていくこととなった。
それではここで、1曲お聴きいただこう。張星唯(Esther Chang)さんの「冰封愛戀(凍りついた愛)」。2016年にリリースされた同名のミニアルバムに収録された1曲。張星唯さんは、台中出身。シンガーソングライターとしての個人の活動のほか、洪榮宏さんや黄妃さんといった台湾語歌謡のトップ歌手のアルバムの作詞・作曲も広く手掛けている。
<第2セクション:映画『零下五十度の抑留者』の誕生と三世代の異なる視点>
『零下五十度の抑留者』を撮ったのは、ドキュメンタリー監督の許明淳(コー・ビンスン)さん。許監督がこのテーマに関心を持ったきっかけの一つは、2011年、台湾で山崎豊子原作のテレビドラマ『不毛地帯』が放送されたことだった。その作品から監督は日本人のシベリア抑留の史実を知る。しかし、その中に台湾人もいたことを知ったのは、2021年に出版された陳力航さんの『零下六十八度』を読んでからのことだった。これが映画化に向けた大きな転機となる。
その際、陳力航さんからは「まだ日本に生存者がいる」と教えられた。その生存者こそ、先ほど最初にご紹介した呉正男さんだった。当時すでに90代半ばになっていた呉さんの話を、今記録しなければ、二度と聞けなくなる。そう考えた許監督は、台湾、日本、そしてロシアへと精力的に取材に向かう。撮影に要した時間は、およそ3年だった。
監督は、台湾や日本で関係者にインタビューを進める傍ら、実際にシベリアへ向かい、かつて台湾人兵士たちがたどった道も追跡した。シベリア鉄道に乗り、収容所があった場所を訪ね、現在の風景の中に、80年前の記憶を重ねていった。
しかし、撮影は簡単ではなかった。80年も前の出来事であり、収容所そのものが残っていないこともあった。資料も断片的で、戦争を体験したご本人の多くは、すでにこの世を去っている。さらに、撮影時期のロシアはウクライナ侵攻によって、旅そのものも大変難しい状況にあった。それでも許監督は現地入りし、残された資料や縁の場所、そして家族の証言を一つひとつつなぎ合わせていった。公共テレビの作品紹介では、この映画を「個人の問いかけと歴史調査を組み合わせた映像の旅」と表現している。
そして、この映画にはもう一つ大切な特徴がある。それは、「戦争の記憶」を一つの世代のみの物語として語ってはいないことである。映画の中心にいるのは、99歳の呉正男さん。そして、許敏信さんの娘、許瑋子さん。さらに、陳以文さんの孫、陳力航さん。本人、子、孫の三つの世代が、それぞれ違う場所から同じ戦争を見つめている。この多層的な視点がこの映画に厚みを加えている。
呉さんにとっては、自分自身の記憶である。許瑋子さんにとっては、父親が語ることのなかった記憶である。そして、陳力航さんにとっては、祖父の人生を調べることで見えてきた家族の歴史である。同じ戦争でも、世代によって見え方が違ってくる。この違いを描くことによって、単なる「戦争の記録」に留まらない、記憶の継承という点で、この映画の唯一無二の価値を生み出している。
ではここで、もう1曲お聴きいただこう。香港出身で現在はカナダ国籍の何韻詩(Denise Ho)さんの歌った「西伯利亞開滿臘梅花(シベリアに咲き誇る臘梅の花)」。この楽曲は2010年にリリースされた『無名・詩』に収録されている。何韻詩さんは台湾の金曲奨の最優秀華語女性歌手賞に2回ノミネートされているほか、俳優、民主化や性の平等などの分野の社会運動家としても幅広く活躍している。
<第3セクション:台湾と日本の視聴者・観客の反応と許明淳監督の狙い>
ドキュメンタリー映画『零下五十度の抑留者』は、2025年12月11日に、『冰封的記憶(凍りついた記憶)』台湾の公共テレビの番組「紀錄觀點(View Point)」で放送され、その後、動画配信サービス「公視+」でも配信された。そして、台湾各地で上映会や講座も開かれている。許監督によれば、視聴者や観客から最も多かった反応は、「台湾人がシベリアに抑留されていたことは全く知らなかった」という驚きだったという。
さらに、自分自身の家族の歴史を振り返り、「親の世代が残した記憶には、実は多くの空白がある」と気づいた人も多かったという。許監督は上映後の観客との対話を重視している。この映画をきっかけに、異なる世代の人々が戦争、国家、アイデンティティについて話し合うことを目指している。
そして2026年9月5日。満を持してこの作品が日本でも上映された。東京で行われた上映会には、許明淳監督と呉正男さんご本人も出席し、上映後のトークイベントも行われた。日本の観客にとっても、大きな発見があったという。シベリア抑留というと、多くの日本人が思い浮かべるのは「日本人兵士」の物語である。しかし、その中には台湾人もいた。しかも、彼らは戦争中には日本兵として戦い、戦争が終わった途端に日本国籍を失った。この事実は、日本と台湾の近現代史を考える上で、とても重い意味を持っている。
当時、軍人・軍属として戦地に赴いた台湾人はおよそ20万人。そのうち約3万人が亡くなった。その一人ひとりに人生があり、家族があり、記憶があった。しかし、その多くは語り継がれることなく消えてしまった。台湾人シベリア抑留者の唯一の生存者の呉正男さんは、そうした方々を忘れないでほしいと切実に訴える。
ここで、映画『零下五十度の抑留者』の原題『冰封的記憶(凍りついた記憶)』という言葉の意味が、改めて浮かび上がってくる。凍りついていたのは、シベリアの大地だけではない。戦争の記憶そのものが、長い間、凍りついていたのである。政治的な事情、国籍の変化、本人や家族の沈黙、世代の移り変わりによって……
だからこそ、許明淳監督は、シベリアまで足を運び、失われた資料を探し、残された家族を訪ね、最後の生存者の話を聞き、かつての収容所や鉄道の跡をたどった。その旅によって、80年間凍りついていた記憶を、もう一度、現在の社会に戻そうとしたのがこの作品なのである。
『零下五十度の抑留者』は問いかける。彼らは日本人だったのか。台湾人だったのか。その両方だったのか。それとも、戦争によって、そのどれにも完全には当てはまらなくなってしまった人々だったのか。その答えを出すのは簡単ではない。しかし、だからこそ、彼らの人生を丁寧に見つめることで、日本と台湾の歴史が、ある種の痛みを伴いながら、より浮き彫りになるのではないだろうか。
終戦から81年。私たちがいま受け継ぐべきことは、歴史の教科書の隙間からこぼれ落ちた、こうした人々の記憶であろう。『零下五十度の抑留者』には、極寒のシベリアで生き延びた台湾人元日本兵の、これまで凍りついていた戦争の記憶を、日本と台湾の双方で次の世代へ手渡していこうという大きなメッセージが込められている。