私は先日、台湾で最も早くに開発された都市で台湾を代表する古都として知られる南部・台南市に行ってきました。
とはいえ台湾の歴史は、少なくとも7000年前まで遡ることができるとされており、7000年前から約400年前までの間、世界の原住民族の祖先が次々と台湾へ。
その後、大航海時代に入り、17世紀前期、大体400年前にオランダ人が台南市西部に位置する海沿いの地区「安平」に進出して拠点を作り、ここから台湾の世界との対外貿易がスタート。台湾は台南を通じて世界との交流が始まったのです。
ちなみに、安平には橋で市内中心部とつながる小さな離島「漁光島」があり、台湾の西側にあることから綺麗な夕日がみられ、台南のオススメスポットの一つです。私は週末に行ったのですが、とても多くの人で賑わっていていました。
そんな台南には、長い歴史を今日に伝える建物が街のあちこちにあり、その中でも私は今回、1932年に日本人が開業した、南部で最も古いデパート「林百貨」を修復し再活用した新たな“林百貨”にも行きました。そこでたまたま台南にまつわる豆知識を色々と紹介している展示を見かけ、勉強になったので、数字を使い皆さんにご紹介します。
一つ目の数字は、「20年足らず」です。これは、漁光島が実際に「島」として独立した姿になったのは2000年代初頭以降、つまりまだ 20年足らずであることを指しています。
というのも、かつては海からの砂が堆積し水面上に現れた「砂州」と呼ばれる地形の一部で、市内の陸地と直接つながっており、島ではありませんでした。1978年には無料で大型滑り台などの遊具や海水浴を楽しめる「秋茂園」と呼ばれるスポットができ、交通の便が良くない場所にも関わらず一日で8万人もの来園者を記録。その後、およそ20年前、安平の港の整備や環境の変化によって陸地が分離し離島に。居住していた島民の交通を確保するため2009年に「漁光大橋」が開通、現在のような「漁光島」となったのです。
現在は夕日鑑賞スポットとしてだけでなく、強い日差しや西海岸からの風を防ぐための防風林が多く自然を感じられたり、台南における「帆船(重要な帆をひろげて風の力で走る船)」の練習場所としても賑わいます。
台南の市街地から橋一本で行ける距離ながらまるで別世界のような自然が広がる「漁光島」、オススメです。
それでは台南にまつわる数字、2つ目は「3位」です。
2024年のデータによると、在来線・台湾鉄道の台南駅における1日あたりの旅客数は約5万人で台湾全土の台湾鉄道の駅のうち3位にランクイン。一位は約12万人で台北駅、2位は約5万5000人で北部・桃園駅でした。
台南の人口は現在、新北市、台中市、高雄市、台北市、桃園市に続く6位であるにも関わらず、台湾鉄道台南駅の利用者は3位ということで、その理由は台南市には他の都市にあるようなMRTがない上、台湾新幹線こと台湾高速鉄道の台南駅が市内中心部から離れており、長距離の旅行者は台南市内に来る際、台湾鉄道を利用することが多いことが挙げられます。台湾鉄道台南駅は林百貨や廟といった歴史的価値を有する観光スポットからすぐ近くのため、駅から出てすぐに観光できることも利用者が多い理由と予想できます。
ちなみに、台湾鉄道台南駅は台湾全土で最も西にある鉄道駅でもあります。
それでは3つ目の数字にいきます。「1885年9月21日」です。
これは台湾初の中学校「長栄中学」が創設された日にちです。この時はまだ中国の「清朝時代」で、台湾の近代教育の先駆けの一つとされています。建てたのはイギリスのキリストプロテスタント教会なのですが、その背景として長栄中学ができる20年前の1865年にキリスト教プロテスタントが台湾へ伝えられたから。それから18年後、1883年に当時ロンドンにいたある宣教師が台湾で教育分野に貢献するため、ロンドンの学校の教職をやめて、2か月以上の航海を経て当時台湾で最も栄えていた台南に到着。困難な道のりの中、さらに1年以上の準備期間を経て、当時のイギリスの教育制度とカリキュラム内容を現地の学生のニーズと組み合わせ、ついに1885年9月21日に長栄中学を開校させました。在校生の毎日の生活には、朝と夕方の祈りが組み込まれたほか、学業面では、キリスト教の教え、聖書の歴史、数学、英語、中国の歴史と地理、自然科学なども教え、キリスト教の教えを通じた教育により、知識を伝えるだけでなく、社会の繁栄に貢献することを目標とされました。
そこから日本統治時代、中華民国時代を経て今は場所を変え、「長栄高校」となり引き続き教育を行っています。
実は、台湾で最初の幼稚園も台南にあるんです。その幼稚園が開園した日にちが今日最後の数字「1897年12月1日」です。
1897年というと日本統治時代が始まってから2年目であり、名前を「台南共立幼稚園」と言いました。台南市内の廟の中に設置されたのですが、後に、資金不足、児童の募集が難しいこと、さらに園が廟の中に設置されたため、多くの信者の往来で園内の平穏が妨げられるなどの問題もあり、開園後3年も満たない1900年10月に閉園となりました。そして閉園と同じ年に台湾で2番目の幼稚園「台北幼稚園」が開園、初期には20名の児童を募集し、台北に住む中流以上の日本人家庭の子どもたちが通園したといいます。