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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」)-2025-10-05-栢野正次郎と台湾コロムビアが築いた台湾歌謡黄金期

<第1セクション:台湾歌謡の生みの親:栢野正次郎>

  • 1930年代に彗星の如く現れ、『望春風』や『雨夜花』など、現在に至るまで90年以上も歌い継がれてきた楽曲を連発し、「台湾歌謡の父」と称された鄧雨賢について、以前この番組で紹介したことがある。しかしながら、鄧雨賢が作曲し、純純が歌って大ヒットした歌の数々も、台湾コロムビアというレコード会社が無ければ世に出ることはなかった。本日は台湾コロムビアとその創立者の栢野正次郎(かやの しょうじろう)の足跡を辿りながら、両者が1930年代の台湾歌謡の萌芽期であり、第一次黄金期に果たした役割について論考してみたい。

  • 栢野正次郎は、日本統治時代の台湾におけるレコード業界の草創期を牽引した人物であり、「台灣コロムビア販賣會社」(=古倫美亞唱片)の創立者・社長として、台湾流行歌・歌謡の近代化に大きな影響を残した。もともとは、日本蓄音器商会(通称「日蓄」/日本での蓄音機・レコード関連企業)の業務が台湾に拡大した頃、その台湾出張所を設立・運営していた岡本樫太郎という人物がいた。栢野正次郎は岡本樫太郎の妹婿という関係にあり、後に台北の日本蓄音器商会台北出張所の経営を義兄の岡本から引き継ぐ形で、音楽関係の業務に関与するようになった。

  • 20世紀前半、台湾は電気・鉄道・印刷など近代的インフラの導入に伴って都市文化が急速に形成され、音楽(レコードを含む)をめぐる商業活動も活発化しました。とりわけ日本資本が関与したレコード会社は、台湾市場にローカルな流行歌(台湾語歌謡、客家歌謡、原住民歌謡、歌仔戲の録音など)を供給し、「現代的大衆音楽」の基盤を築いた。1920年代から1930年代初めにかけては、台湾には蓄音機の台数も限られ、「レコードを聴く・聴かせる文化」の土台がまだそれほど固まり切っていなかった時期であったが、栢野はその後のレコード文化の開花を先導する立場となった。

  • ここで、台湾で最初のレコード会社となった日本蓄音器商会について少し触れておきたい。「日蓄」は1910年に台北の榮町(現在の中正区衡陽路一帯)に出張所を設ける形で台湾での営業を開始した。1914年に「日蓄」の社長・岡本樫太郎が客家の楽師15名を引き連れて、日本でレコーディングを行い、台湾で最初のレコードとなった「客家八音」の演奏曲『大開門』と『一串年』は、こうして「日蓄」から誕生している。残念ながら、この時代は蓄音機もあまり普及していなかったこともあり、レコードの売り上げは理想からは程遠かったが、兎にも角にも台湾のレコードの始まりが、「客家八音」であったのは興味深い。

  • さて1925年に、栢野は岡本樫太郎から日蓄(日本蓄音器商会)台湾出張所の経営を引き継ぐと、台湾独自の流行歌創造への強い意志を示した。栢野は日本の歌だけではなく、台湾語歌謡や客家語、あるいは台湾の「歌仔戲(台湾オペラ)」の伝統音楽歌唱を取り入れたローカル音楽を商品化することに強い関心を持ち、「台湾人自身に属する台湾の歌を創らねばならぬ」という理念を掲げた。社内に文藝部(作詞・作曲、音楽制作部門)を設け、作詞家・作曲家・歌手を台湾出身の人々の中から積極的に起用するよう努めた。

  • 栢野は1933年2月に、「臺灣コロムビア販賣株式會社(Columbia Records, Taiwan)」を正式に登録設立し、本格的なレコード製造・販売・録音・流通活動を行う体制を確立すると、初代の文藝部長には作家の陳君玉が就任、続く二代目には後に『雨夜花』の作詞を後に担当する周添旺が就任した。作曲家の鄧雨賢、歌手の純純も台湾コロムビアのチームに加わり、栢野正次郎の指導のもと、台湾コロムビアは多くの台湾語流行歌の作家や歌手との協働で次々と今日にも継承される名曲を世に送り出して行った。

  • 例えば、『望春風』。この曲は、作曲を鄧雨賢、作詞を李臨秋、歌手は純純(本名:劉清香)が担当、編曲を日本人の仁木他喜雄(にき たきお)が行い、東京で録音された後 1933年8〜9月頃発表された。発表当初から台湾で大変な人気となり、その後映画や演劇などでも取り上げられ、台湾の代表的な懐メロ歌謡となっている。『望春風』は栢野のレーベル運営下で、台湾語流行歌を明確に商品化した先駆的作品のひとつ。『望春風』と同じく現在まで歌い継がれている『雨夜花』も、鄧雨賢作曲、周添旺作詞による台湾語歌謡の名作で、純純歌唱によってがヒット。栢野が手掛けた台湾語流行歌の黄金期を象徴する楽曲の一つ。

  • ではここで、当時純純さんが台灣コロムビアからリリースした『望春風』を針飛び音などを修正したデジタルリマスター音源でお聴きいただきたい。

<第2セクション:栢野正次郎の経営方針と文化的意図>

  • 栢野正次郎率いる台灣コロムビアは、「歌仔戲」の録音(歌仔戲の物語や歌仔戲劇団役者の歌)、客家語歌謡、伝統音楽の録音・発売、さらには西洋曲・交響楽演奏の録音など、台湾内外の様々なジャンルを手がけた。こうした多様な取り組みによって、台湾の音楽市場の裾野を広げた。栢野正次郎は、単なる商業的成功だけでなく、台湾という土地に対する文化的・地域的配慮、台湾の近代化や地産地消的な歌謡を作り上げることを常に意識していた。

  • 栢野の業績は以下の4つの点にまとめられる。一つ目は商業音楽のローカライズ、現地化の推進である。栢野はただ単に日本の流行歌を台湾に持ち込むのではなく、台湾語や台湾人歌手・作曲家・作詞家を使って、台湾人自身が共感できる歌を創作しようとした。これは先ほども述べたとおり、「台湾人自身に属する台湾の歌を創らねばならぬ」という栢野の発言にも表れている。

  • 二つ目は、台湾音楽界の人材発掘への貢献である。台湾コロムビア内部に文藝部を設立し、台湾現地の作詞家・作曲家の起用、歌手の育成・録音機会の提供など、多くの台湾の才能に対して橫の支援を行った。歌手の純純や作曲家の鄧雨賢などがその恩恵をいちばん受けたと言える。

  • 三つ目は、今で言えばマーケティングの体制の確立。音楽の制作から、宣伝・販売・聴衆開拓までの流れを規範化したことが挙げられる。新譜レコードの広告掲載や販促イベント、街頭での宣伝、試聴会の開催など、PR文化を確立するとともに、栢野はレコードの販売とセットで蓄音機の代理販売にも力を入れ、経済インフラを整備し、消費文化の創出にも務めた。この辺りの情報は林良哲さんが著した『留聲機時代:日治時期唱片工業發展史』(左岸文化、2022年)に詳しいが、店頭販売・見本展示・顧客維持など商業戦略をかなり工夫していたことが伺える。

  • 四つ目は先ほども触れたジャンルおよび言語の多層性である。客家語・台湾語といった現地の言語、「客家八音」や「歌仔戲」などの伝統的なジャンルだけでなく、新しい流行歌、西洋様式の影響を受けた編曲などを取り入れ、ジャンルの幅を広めたことも特徴。これにより、台湾の聴衆はさまざまなスタイルの音楽を経験・選択できるようになった。

  • 栢野によってもたらされたこうした変化は、短期的には「商業化」に伴う創作の単純化や大量生産的な側面を生み出したが、長期的には台湾の大衆音楽の多様性とプロフェッショナリズムを育む土壌となった。音楽は商品としての価値を持ち、専門職(歌手、作曲家、編曲家、レコード営業)の職業化が進んだのも、その副産物と言えるだろう。

  • 戦後における台湾ポップスや歌謡の変遷を考える上で、日本統治時代における栢野正次郎率いる台湾コロムビアのもたらした後世への影響は、極めて大きかったと言えるだろう。また、それまで口承頼みで途絶える可能性があった伝統音楽を録音という形で記録して後世に残したことは、文化遺産保護の観点からも評価されて良い。

  • 流行歌に目を向ければ、実際に音楽を生み出したのは、作曲家の鄧雨賢であり、歌手の純純であったことには間違いないが、栢野正次郎が台湾コロムビアという会社を通じて、こうした才能を発掘し、彼らが創り出した音楽を商品化して、消費市場に送り出したからこそ、私たちは彼らが生み出した音楽を90年後の今日でも楽しむことができるのだ。栢野正次郎は、その意味でもう一人の「台湾ポップスの生みの親」と言っても良いのではないかと私は思う。

  • では、ここで台湾コロムビア二代目の文芸部長の周添旺が作詞、台湾コロムビア専属作曲家の鄧雨賢が作曲、そして台湾コロムビアの看板歌手・純純の歌で『雨夜花』をお聴きいただきたい。

<第3セクション:栢野正次郎の晩年と再評価>

  • 台湾ポップスの萌芽期であり、第一次黄金期と言っても良いこの時代は、しかし長くは続かなかった。栢野正次郎および台湾コロムビアの活動には、時代の制約および戦争による転換が強く影を落とし始めるようになる。日本統治時代の後期、特に皇民化運動が始まる1937年以降は、検閲と言語統制が日に日に進み、台湾語歌詞や「非日本語的」歌詞・表現に対する制限が強まった。『望春風』などの台湾語流行歌も、時局に応じて日本語歌詞への改編を求められ、軍歌・国威発揚のための歌謡に転用されるようになった。

  • さらに1941年に太平洋戦争が勃発すると、この動きはさらに加速した。戦局が激化するにつれて、資材・人手の確保が困難となり、録音・製造・流通も制限された。また、終戦間近には台北市も空襲に見舞われ、会社の施設・設備が被害を受け、資本・物的基盤まで損なわれることとなった。

  • 1945年の終戦後、台湾は中華民国政府の統治下に入り、ほとんどの日本人は台湾を離れていった。栢野も最終的には台湾を離れたとされているが、いつどのように離れたのかはっきりした記録は残っていない。彼の築いたレコード会社・作詞作曲・録音した音源の権利や在庫がどのように整理されたかについても史料が不完全であり、彼自身のその後の生活についても、戦後「歌樂電響」という会社に勤めていたらしいということ以外は明らかにはなっていない。それでも、やはり音楽エンターテイメントの世界には身を置いていたようである。

  • 栢野正次郎は、新たな市場を見込み、台湾の音楽文化を商業市場に乗せて現代的な娯楽産業として成立させるヴィジョンを持ったプロデューサーであり、また台湾人歌手・作曲家・作詞家との協働を行い、現地の文化的な感覚を尊重した作品を多数制作し、検閲などの圧力を受けつつも、可能な限り台湾語歌謡を維持しようとした柔軟性を持った日本人経営者でもあった。

  • 栢野正次郎が残したものは、台湾の流行歌史・大衆音楽史を語るうえで避けて通れない歴史的遺産である。戦後、台湾では国民政府による中国語普及政策の期間があり、台湾語歌謡・歌詞には抑圧・制限があった時期もあるが、戦前に台湾コロムビアを通じて制作された台湾語歌謡は、戦後も時代を超えて歌い継がれ、復刻され、研究され、文化的なアイコンとなっている。その典型例が『望春風』であり、『雨夜花』である。これらの歌は台湾の恋愛・郷愁・季節感を歌う文化アイコンとして、今日において「台湾の古典歌謡」「黄金時代の歌謡」としての地位を確立している。

  • また、台湾コロムビアの録音・発行点数(1,500点とも言われている)の多さやジャンルの広さ、台湾ローカルの歌手・作詞家・作曲家の育成など、後の台湾ポップスあるいは歌謡の製作・流通モデルに多くの要素を提供したことも明らかである。この意味で、栢野正次郎は台湾の文化史において、音楽の「商業化と近代化」の橋渡しをした人物であり、その功績は台湾内外で再評価されている。

  • 本日のお別れの曲は江惠儀さんの歌で『月夜愁』。この曲もオリジナルは『雨夜花』の作詞が周添旺、作曲が鄧雨賢、歌が純純の台湾コロムビアが誇るゴールデントリオ。本日は純純のオリジナル版と江惠儀さんのバージョンをコラージュの形でお聴きいただきたい。江惠儀さんは、台中出身、国立交通大学情報管理研究所修了の博士で現職は台湾最大手の通信会社・中華電信のエンジニアという一風変わった経歴を持つ歌手。2019年には第30回金曲奨の最優秀台湾語女性歌手賞も手にしている。江惠儀さんのちょっとハスキーな歌声とJazzyなアレンジが、私のとてもお気に入り。こうして90年前の歌が受け継がれていることに感無量。

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