<オープニング>
台湾各地には雄大な自然景観が数多く存在する。特に花蓮県の赤科山や六十石山から望む花東縦谷の眺めは感動的であり、このような「絶景」は古来より多くの人を魅了してきた。その象徴が、1927年に日本統治下で『台湾日日新報』が主催した「台湾八景」の選定である。これは当時日本本土で流行していた「日本八景」選出の動きに呼応し、台湾の風光を「帝国の美」として体系化する文化的試みでもあった。
<第1セクション:「台湾八景」選定の経緯と結果>
『台湾日日新報』は当時、台湾最大の邦字紙であり、総督府の方針とも連動していた。1927年6月から7月にかけて一般投票を実施し、約50か所の候補から8か所を選定。結果は8月27日の紙面で発表され、基隆旭岡、台北淡水河、台中八仙山、南投日月潭、嘉義阿里山、高雄壽山、屏東鵝鑾鼻、花蓮太魯閣峡が選ばれた。
選考は①読者投票(30%)と②専門家審査(70%)の二段階方式で行われ、景観の独自性、規模、交通の便、史跡価値、地理的バランスなどが基準とされた。特筆すべきは、通信投票だけで3億5千万票を超える票が集まったことである。当時の人口約400万人から考えると、1人あたり90票以上という驚異的数字で、まさに「投票狂想曲」と呼ぶべき社会現象だった。
ここで「台湾八景」に選出された景勝地の一つ、淡水の夕景を歌った「淡水暮色」を洪一峰さんの歌でOA。
<第2セクション:「台湾八景」投票ブームの背景>
このブームの背景には、『台湾日日新報』を中心に地方社会、交通・観光業者らが一体となって展開した大規模な動員があった。新聞は毎日のように順位速報や宣伝記事を掲載し、商店では投票券付き絵葉書を販売。投票者には懐中時計や債券など豪華な賞品が当たるキャンペーンも行われた。
こうした商業的手法により、投票は一種の社会的ブームとなり、新聞の発行部数増加にもつながった。同紙は「台湾の名勝を発掘することは文明化の象徴」と位置づけ、整備された鉄道・道路網とともに、台湾の風景を「帝国臣民が共有する美」として再定義しようとした。
一方で、この動きは台湾人知識人の郷土意識をも刺激した。阿里山や日月潭などの観光地は鉄道整備によって人気を集め、「観光ブーム」の火付け役となった。太魯閣や淡水、安平などは文学や絵画の題材にも頻繁に取り上げられ、台湾文化における「風景の語り」を生んだ。日本人写真家による絵葉書やポスターは台湾の代表的イメージを形成し、「風景=近代化の象徴」との価値観を根づかせた。
鄧麗君(テレサ・テン)さんの歌で『高山青』をOA。
<第3セクション:「台湾八景」の歴史的系譜とその後の展開>
「台湾八景」の概念自体は清朝期にも存在しており、1696年『台湾府志』や1752年『重修台湾県志』には台南周辺を中心とする八景が記されている。日本統治時代にも1913年に『台湾日日新報』が「天長節」企画として写真8景を発表しており、1927年の企画はその延長線上に位置づけられる。
戦後もこの伝統は受け継がれ、1951年には中華民国政府が「新台湾八景」を発表。玉山積雪、阿里山雲海、日月潭秋月、陽明山春景、安平夕照、清水断崖、太魯閣幽谷、澎湖漁火が選ばれた。さらに2005年には観光局が現代版「台湾八景」を制定し、台北101や高雄愛河など都市景観も加わった。これらは時代ごとの価値観や地域バランスを反映しており、1927年の企画がその後の台湾観光文化の原点となったことを示している。
<第4セクション:「台湾八景」の現代への継承と世界遺産への課題>
現在、台湾には太魯閣渓谷や烏山頭ダムなど世界遺産級の自然・文化資源が多数存在する。しかし台湾は国連に加盟していないため、ユネスコへの世界遺産登録申請ができない。唯一の道は第三国からの推薦による登録であり、実際パレスチナなどではその前例がある。
日本で2013年に設立された「台湾世界遺産登録応援会」は、台湾の文化・自然の普遍的価値を広める活動を展開しており、「世界遺産の理念は国境を超えて人類の共有財産を守ることにある」と訴える。台湾の美しい景勝地や文化遺産が政治的制約を超えて正当に評価される日が来ることを願う
本日お別れの曲は、1958年に吳晉淮さんが歌った『港都夜雨』を本日は江蕙さんfeat.王建傑さんのバージョンでOA。